作り手になるまでの物語をたっぷりお聞きしました。

今回のインタビューは、葉山在住のはんこ作家、norioはんこの江口真希さん。

江口さんは、京都精華大学の日本画学科を卒業後、はんこ作家としてデビュー。以来日本全国各地ではんこオーダー会を開催してきました。
これまでに彫ったはんこの数は2万個以上。対面でお客さんの要望を聞きながら目の前でその人だけのはんこを彫り上げていくスタイルにはファンが多く、オーダー会はいつも大盛況。

私はふらりと入った地元のカフェでたまたま隣の席に座ったことがきっかけで江口さんと知り合い、同じ関西出身だということや、息子と江口さんのお子さんが同じ保育園に通うなど嬉しい偶然が重なって親しくさせていただいてきました。

何度となくはんこをオーダーさせて頂いてきましたが、こちらのイメージをスルスル彫り上げていく奇跡のような職人技に毎回感動!

今日は葉山の小高い丘の上の海の見えるアトリエにて、私の大切な友人であり大好きなはんこ作家である江口さんに、これまでのこと、そしてこれからのことをたくさん伺ってきました。

(聞き手:works and stories 松井咲子/撮影:渡部忠)

1はんこ作ってみたらどうやろってポン!ってひらめいた。

松井
まずははんこ作家になる前のお話を聞かせてください。
江口さんははんこ作家になる前、大学で日本画を専攻されたと伺いましたが、子どもの頃から絵を描くのが好きだったんですか。

江口
そうそう、小3の夏休みの宿題で、キャンプに行った思い出を描いたんやけど、間に合わへんから背景を母が描いた(笑)
それがリアリティ溢れてたのか、廊下に張り出されてしまって「わ~どうしよう!」と思って。
でもそれを母が描いたってもう言えない状況で。
松井
(笑)
江口
もともと絵は好きやったけど、絵を張り出されたからには絵がうまくならないといけないと思って、そこから気合いを入れて絵を描くようになったんです。
おもしろいことに、いつも一生懸命描いた絵よりは、ばーんと描いた絵のほうが褒められたりして。
それで、小学校のときは絵を描けるっていうのがひとつの自信みたいなっていました。
5年生のとき、母に手伝ってもらわず自分で描いた絵を先生が東京に送ったら、当時の総理大臣だった海部俊樹さんの賞に選ばれて、表彰されたんです。
それを家族みんなで喜んで、そこでもう自分は絵が好きな人だって思いました。

- やはり小さい頃から絵が好きだった江口さん。
自信を持てる何かがあることって、生きていく上でのとても大切な宝だと思います。
江口さんは、中学に入学するタイミングで当時暮らしていた岡山を離れ、多感な時期を大阪で過ごすことになります。

江口
父の転勤で岡山から大阪に出て、言葉も違うしすごく面食らって。
その時は絵のことをすべて忘れちゃうぐらいしんどくて。
大阪のコミュニケーションに慣れるのに必死やったって言うか…。
もうめっちゃしんどいなと思ってたけど、でもなんかがんばらなあかんなと思って、高校は自分の好きな高校に入ろうと頑張って、入れたんです。
高校に入ったら友達関係も変わり、気付いたら美術が好きな友達が多くて、その友人たちは高2から美大の受験のための画塾に行き始めたんです。
私はそのとき普通の勉強をしていたんだけど、高3の夏に、そういえば私も小学校の時絵を描くのが好きやったなってのを思い出して、そうや!これは周りのみんなも画塾に行ってるから、私も行こうと思って。

- 絵が大好きだった女の子が、そのことをすっかり忘れてしまうとは、どんなに大変だったのだろうと想像できます。そんな辛い時期に「何か頑張らなあかん」と思った江口さんに拍手!
私は辛い時はただただその状況に落ち込んで苦しくなるだけでやり過ごしてしまいがちです。でも、困った時こそ心の動揺は一旦脇に置いて、どうしたらそこから抜け出せるかと考えて動いてみる。とても根気とエネルギーがいる作業ですが、それが自分の人生を切り拓いていくことなのだろうと思います。

江口
アトリエに行ったら、最初にバケツを描かされたんだけど、それがすごく下手で。
先生に「二浪するけどいい?」って言われた…。
その場で親に電話したら「いいよ、二浪でもいいからやったらいいんじゃない」って言ってくれて。それで比較的倍率の低かった日本画科を受験することに決めて、高3の夏から受験の1月までは人生で一番たくさん絵を描いた。
そしたら、3つ受かりました!短期決戦気合派やから(笑)先生もびっくりしてましたね(笑)

- やると決めたら一直線、猪突猛進する江口さん。スカッとする~!それまでの江口さんの努力を空から見ていた神様に導かれたかのよう。
あ~もうダメ…というときこそ、ぐいっとエンジンをかけて前を向いて歩き続ける、そうすればきっと嬉しい世界が開いていく。江口さんのお話を聞きながらそんなことを思いました。

さて、無事に合格した大学で日本画を専攻した江口さんですが…。

江口
日本画学科に入ってみたら、日本画は3か月で1枚っていう感じですごい計画立てて描くものなので…向いてへん!って思って(笑)
私は最初からばーっと描いて短い間で描くのが向いてるなと思いつつも、せっかく入らせてもらったしと思ってがんばろうと。

- そして卒業後はすぐにはんこの道に入ったのかと思いきや、なんとインドに旅立ちます!

松井
インド!どうしてインドだったんですか。
江口
それはね、日本画の画家で秋野 不矩(あきの ふく)さんっていうおばあさんがいるんです。
50代の時インドに行って絵を描き始めて、40年ずっと絵を描いていたというおばあちゃんなんだけど、その人の題材がインドだったから。それを見たいから行ったのと、ブロックプリントを見たかったっていうだけで。
松井
お~!なるほど。
江口
その後のことは全く考えてなかったんやけど、インド帰りの飛行機で隣に乗ってた方があるブランドのカバン屋さんで、そこのインドの刺繍とかデザインをやってほしいっていうことになって(笑)
その人の事務所でバッグデザイナーみたいに絵を描いたり、インドの職人さんが刺繍するための指示書を描いたりする仕事をしたんです。
松井
へえ、帰りの飛行機で就職先が決まったんですね!
江口
そのあと、またインドに行って帰って来た日に、今度は大宮にあった雑貨屋さん「私の部屋」でスタッフ募集っていうのを見て、働くんです。
だから、インド帰りの飛行機とバスの中で、大切な出会いが2回あったわけよね。バッグデザインの仕事と「私の部屋」と。

- さすがの行動力と引き寄せ力。
なんだかものすごくおもしろい映画を二倍速で見ているようなドキドキとスピードを感じるお話ですが、江口さんのドラマはまだまだ続きます。

江口
私の部屋で2年ぐらい働いたところで、店長さんから絵を描いて展示したら?って提案があって。
1年ぐらい頑張って絵を描いて売ってたんですけど、「私の描いた絵です。あなたの家にどうですか?」ってお客さんに話して買ってもらうのがすごく辛くて。
コーヒー豆を描いてみたり、その当時流行ってたシンプルライフ的な感じの絵を描いてたんやけどすごい違和感があって。なんで違和感があるんかなと思ったら、その人が使う物じゃないからかなと思って。
要るって言われてないのに描いてる。何を描いていいのかわからなくて。そういうところが違和感あるんやなと思って。
松井
なるほど。そこからどうやってはんこを作るようになったんですか。
江口
実は、インドに行く前に一つだけ働きたいと思っていた会社があって、そこに入れなかったからインドに行ったんだけど、その時のポートフォリオでたまたまはんこを彫ってたんです。
祖母が習字をやってたから昔から落款(らっかん)にすごく親しみがあって、自分が酉(とり)年やから酉のはんこを作った記憶があって、大宮でポップアップするのにはんこ作ってみたらどうやろってポン!ってひらめいた。
松井
すごい。
江口
それで周りに相談したら、その頃、周りに物作りしてる人が多くて。
丁寧に暮らすというか、雑巾をちくちく塗ったり手仕事する人達がちょうど増えてきた頃で、自分の作ったものを売りたい、っていう人にはまったんかな、はんこっていうものが。
その人の商品に押せたり、名刺にも使えるってみんなが欲しいってすごく言ってくれたから、いけるかもと思って。

- 自分の絵を描いて販売するというチャンスに努力を続けながらも、自分の中に生まれた違和感をほったらかしにない。
あれ?と感じるポイントを冷静に分析して、もっと自分にしっくりくる道はどこにあるのかなと考える。
今では日本中にファンがいるnorioはんこさんはこうして生まれたんだと思うととても感慨深いです。
次回はポン!とひらめいたというはんこの世界で作家としてスタートを切った江口さんのその後について伺います。

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この記事に登場の作り手

ポートフォリオ

norioはんこ 江口真希
京都精華大学の日本画学科を卒業後、はんこ作家としてデビュー。
以来日本全国各地ではんこオーダー会を開催。
これまでに彫ったはんこの数は2万個以上。
対面でお客さんの要望を聞きながら目の前でその人だけのはんこを彫り上げていくスタイルにはファンが多い。
生活の拠点を東京から葉山に移した近年では、これまでの活動に加えてオンラインでもはんこオーダー会を開催し、雑誌などの様々なメディアでも取り上げられるなど、活動の幅をさらに広げる。

https://www.instagram.com/noriohanko/

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